2015-11-20  中外日報社 記事   『千年の時空超え色鮮やかに再現』 「伝真言院曼荼羅の開眼法要」

この記事への補足

正直、この記事を読んで、筆者である私は疑問を覚えました。
なぜなら、事実と違い、読者に誤解を与えかねない内容だったからです。

問題は、この記事を書いた有吉という記者が、開眼法要終了直後、次のレセプションに向かう慌しい時間の中、施主である総代の芹澤氏のみへの取材で済ませてしまったということなのです。

その慌しい時間の中では、この曼荼羅の制作を一番良く知る私への取材が困難だったので、その様子を見かねた私は、檀家総代である芹澤氏へのインタビュー中に、後日メールなり電話なり取材を受けるつもりで、「いつでも対応しますので」と、笑顔で名刺を渡しておいたのです。
しかし、この記事を書いた有吉記者からは、記事掲載にいたる過程で何も連絡はありませんでした。

この誤解を生むような記事への補足として、その施主である芹澤氏がこの記者にお応えになった内容の様子や意味を詳しく説明しないと、読者に誤解を与えてしまうのではないかと懸念し、この仏教美術史に残るであろう「伝真言院曼荼羅放生寺本」制作において、以下に真実だけをまとめておこうと思いました。


東寺の長者さんに箱書きを依頼しに行く

まず、この両界曼荼羅を完成した昨年12月、施主の芹澤氏、放生寺ご住職と3人で、東寺の砂原長者に、箱書きをお願いしに行きました。
すでに表装が完成して、私の工房にあった曼荼羅の桐箱の蓋だけを私が持参し、東京からお越しのお二人と東寺で待ち合わせ、私も同行しました。

私が、施主の芹澤氏から曼荼羅制作の依頼を受けた時には、放生寺住職の高野山専修学院時代の同期生である吉村庶務部長の仲立ちで、東寺から、すでに、この伝真言院曼荼羅の放生寺本を制作する旨の許可を得てあると告げられておりましたこともあり、この東寺の許可申請の経緯や成り行きは、私の知るところではありませんでした。

芹澤氏が、長者さんに箱書きして欲しい文言のメモを手渡しし、控え室で長者さんが書き終えるのを待ちました。

その間、お相手いただいた執事長さんと、いろいろ興味深いお話をしながら待っていますと、箱書きが完成したとの連絡が入り、長者さんのお部屋まで行くと、箱の表には立派な文字で「伝真言院曼荼羅」とだけ書かれ、「放生寺本」と書かれていなかったので、私たちは、ちょっとビックリしましたが、私自身は長者さんのサービスなのかなと軽く考えました。
その時には、蓋の裏側の文言まで事細かく確認することまでは、まったく気が回りませんでした。

その後、その施主と住職と三人で、表装の完成した曼荼羅が吊るしてある私の工房に帰り、写真を撮る為、蓋を両界曼荼羅の間に立て掛けよく確認すると、蓋の表には、立派な字で「伝真言院曼荼羅」。
内側には「為寺門興隆 平成二十六年 甲牛年 師走  絵師 藤野正観 下絵 十時宏之 放生寺総代 芹澤精一  真言宗総本山 教王護国寺 第二百五十六世長者 東寺真言宗第二世管長 大僧正 砂原秀遍」とありました。

蓋の内側には、芹澤氏のお願いされた内容が書かれているらしいのですが、私の名前の横に、少し小さな文字で、「下絵 十時宏之」と書かれていたのです。

私は、とっさに「誰?何?」と思ったのですが、「あぁ、そういえば、あの始めてお会いした時、言っておられたご友人の息子さんのことか・・・。」と、すぐに気付きました。


施主側の想いと意向


当初、芹澤氏が、当工房に制作依頼に来訪された時に、持ち込まれた資料中にC・G(コンピューター・グラフィックス)で描かれた曼荼羅がセルに印刷されたものがあり、それは何かとお尋ねすると、芹澤氏は、おおよそ以下のようにお応えになりました。

「東京で、何年か前に、何人かの専門家に監修を依頼し、自分の友人の画家である息子さんに曼荼羅制作を依頼していたが、やっとここ(C・Gセル印刷の内容)までは出来たが、絵絹もないし、おまけにその若い画家さんは絵絹に描く方法も知らないし能力も無いので、これから勉強する費用を出してくれとせがまれている。先に進めなくて困っている。京都で仏画を専門に描く絵師(藤野正観)が居ると聞いて相談しに来た。」と、まぁ、こういうことでした。

画家の十時氏にはこういった書き方をしてたいへん失礼で申し訳ないのですが、あの時の芹澤氏は、京都の私の工房に来られるまでの曼荼羅制作に、費やした多くの費用と、専門家(学者)にその十時氏の作ったC・G曼荼羅の内容をチェックして貰いに走り回り、それに費やした3年という時間に、持病のご病気のこともあり、かなりお疲れのご様子でした。
私の工房付属のギャラリーに展示してあった「元禄本両界曼荼羅」を御覧になった時には、放生寺住職に、「これではダメか聞いてみるとも言っておられました。」よほどお疲れだったのでしょう。

でも、放生寺ご住職のご希望は、世界最古で国宝の「伝真言院曼荼羅放生寺本」だったのです。

いづれにせよ、曼荼羅をはじめ仏画を普通に絹本に描いて生活している私に会われたことで、安堵されたご様子が伝わってきたのを覚えております。

芹澤氏より今までの成り行きやご事情の一部をお聞きした私は、画家であっても曼荼羅制作においては、十時氏がまったくの素人であることを理解し、「私にお任せになるほうが良いと思います。」と申し上げたことを覚えております。


東京で作った曼荼羅のC・G(コンピューター・グラフィックス)


このC・G、どんなものかと興味をもって細部を見ると、やはりコンピューターだけで描いた無機質なもので、ほとんどがコピー&ペーストで描かれたもので、内容が抜け落ちた部分も有り、内容を信用できるものではありませんでした。
専門家のチェックを受けたとはいえ、それ等は私の知るところでありましたし、すでに元禄本の彩色や、仁和寺(御室)本の白描画を描いた私がそのC・Gを頼りにする必要のない代物でした。 
※当工房で制作した「仁和寺本白描図像集」は、高野山大学の図書館にお買い上げいただいています。

施主の芹澤氏は、このC・Gは、多くの時間と費用を掛けて「何人かの曼荼羅専門家(芹澤氏曰く)のアドバイスによってここまで出来たので、ぜひ、参考にして欲しい。」とのことでした。

左がC・Gによる 右が原図。まったく違う。


当工房で制作中の下図(白描画)

【施主より、私がこの問題を指摘してから聞いた情報によりますと、「東寺への復元図制作許可申請書に書いた内容と違ってくるので、東寺の手前、帳尻合わせが必要だった。」とのことでした。ここでは、その申請書に書かれた内容は詳しく書きませんが、密教図像の専門学者の名前もありました。
ですので、後世の調査研究においてだけではなく、今後の展開においても、私の知らないところで、申請書に書かれた人物が、この伝真言院曼荼羅放生寺本の正当な監修者や下図制作者になってしまう可能性があるのです。】

国宝指定の絵図の手描きによる写しをするのに所有者への申請書が必要なことを聞いたことがない私は、施主の芹澤氏から、すでに多くの時間と多くの費用がかかっているとお聞きしていたこともあり、「これは必要ありません」と、無碍に返すのも、氏に対して気の毒と考えましたし、芹澤氏の曼荼羅寄進に対する情熱と努力がなかったら、当然ながら、私のところへ相談に来られる段階までも達し得なかったことになりますので、氏のお気持ちを汲んでとりあえずお預かりすることにしたのです。

この記事で、インタビューをお受けになった芹澤氏個人にとっては、この私に会われるまでに要した時間も様子も含め、曼荼羅制作に費やした時間だったのでしょうけど、経験済みのプロの絵師である私にとっては、それまでの時間はまったく関係のない必要のない時間に過ぎなかったのです。

芹澤氏は、私が一から下図を作ったことを、契約どおり逐次報告していた為、知っておられるはずと、私は認識していたのですが・・・。
なぜ、箱書きに十時氏のお名前を記載されたのでしょう・・・東寺に提出された申請書を修正するか、私の名前を追記をされなかったのか、疑問が残ります。


「伝真言院曼荼羅放生寺本」を一から完成させたのは藤野正観とその弟子達です。


と、いうことで、私と会われるまでの芹澤氏の東京での努力のほとんどは、私の曼荼羅制作にとって必要のないものでした。
唯一、役に立ったのは、私の手元になかった参考資料として、平凡社刊の写真家石元泰博氏著の「伝真言院曼荼羅」をお借りできたことでした。
この高価な本がなかったら、この伝真言院曼荼羅は、たったの2年間では写し描けなかったと思っております。

制作中、何度か京都の私の工房にお出でになった芹澤氏には、あのお借りしたCGは参考にならなかったと、お伝えしていたのですが、やはり、長い時間と多くの費用、とくにその十時氏に費やした経費を無駄にしたとは、お認めになりたくなかったのかもしれません。

下図の制作中にも、私に肺癌が見つかり摘出手術を受けるために入院したその個室でも下図の制作作業をしていたのですが、当然ながら、私が、弟子達4人の力を借りながら当工房全員で一から作ったものなのです。

もう、桐箱蓋の内側には、下図の作者として、私のまったく知らない人物の名前が書かれています。
私の関わる前から、その東寺に提出された制作許可申請書にも、まったく私の関知しない人物の名前が書かれています。

「いまさら、もう良いか・・・。芹澤氏は、請来のある若き画家である十時氏の親であるご友人に気を遣われたのか・・・。」と、角を立てないようにと、気にしないようにしていました。・・・職人絵師の悲しい性かもしれません。


それでも、仏教美術史上の観点からも間違った情報は正しておきたい。


それから、約1年。平成27年11月17日、放生寺は、高野山真言宗の中西管長猊下をお迎えし、その曼荼羅の開眼法要を施行されたのです。
式典では、中西管長猊下より、筆者の私に「褒賞状」が手渡され、それには高野山真言宗としての感謝の意が表明されていました。

下図作成に協力したということになっている十時氏は、法要にも式典にも祝宴にも呼ばれておらず、このことは、お寺も総代方も、私の手によって全て描かれた曼荼羅ということをご認識頂いていることの裏付けにはなると思うのですが、今回のように芹澤氏へのインタビューで苦労話をと聞かれれば、私に会う前のこともお話されるのも無理は無いのかなとも思うのですが・・・。

しかし、箱書きの内容や、申請書の内容、上の新聞記事では、複数の画家が関わって完成したかのようなニュアンスが伝わってきます。

伝真言院曼荼羅放生寺本は、当工房にて、下図制作から彩色、表装に至るまで、芹澤氏との契約どおりの日程で完成させました。
施主であるだけの芹澤氏が、私に会うまで、どんな努力をされ、苦労され、どんなしがらみをお持ちなのか大部分は分かりませんが、「伝真言院曼荼羅放生寺本」の制作における全ての事実は、以上の通りです。


最近、専門家で「西院曼荼羅」といわれる所以


伝真言院曼荼羅という東寺所蔵の曼荼羅は国宝指定ですがミステリアスな曼荼羅で、制作者はもちろん、どこで描かれたものかも定かではありません。
その曼荼羅の呼び名も、最近の研究では箱書に残っていた墨の跡から東寺の「西院」にあったということが有力説となり、専門家の間では「西院曼荼羅」と呼んでいるようです。

このように箱書きの内容や書類が、後世の研究者の頼りとなることは確かなことですが、放生寺本の場合は、最初から違った情報が箱書きされ、書類にも記載されていることになります。

歴史は作られると言いますが、まさにこの事なのだなぁと、つくづく感じ入っております。
新聞まで間違った情報を流した今、事実を明らかにしておかなくてはと思い、この事を書き添えることを決心したのです。



以上は、下図(白描画)の制作も筆者である私の著作物であることを、「私と弟子しか知らない」という、ひどいことになってしまいましたので、私自からが記事とともにここに明らかにしておきたいと思いました。 


2015年11月30日公開、 2015年12月4日画像追加更新  仏絵師:藤野正観 拝

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