中外日報 1999年(平成11年)7月18日 中外アート 不定期連載エッセー&コラムより 1/2紙面

「仏」にふさわしい居場所へ

「祈りの塊」に良い出来も悪いもない

仏画工房 楽詩舎 代表絵師 藤野正観
十八畳大の和紙に平成大涅槃図を描く筆者

 博物鮪に行くと、仏教美 術の最高峰とされる「仏」 たちが美を競い合う品評会のように整然と並べられている。
りっぱな美術品と して博物館のお世話になる と、「仏」たちは至れり尽くくせり、おもてなしをして もらう。

 修理に修理を重ね年をとらないように消毒をし たり、必要とあれば手術もする。
同時代に造仏され、国や都道府県に認定されていないかわいそうな「仏」たちは、彼らより先に老いて朽 ち果てる。

 さてさて、この待遇の差 は何だ?  仏像にせよ仏画にせよ、 人が信仰の対象として造っ たもの。出来の良いのや悪いのやら、色々ある。
私も 今までに数千点の仏画を描 かせていただいたが、たま−に良いのを描く時があるが、もうひとつ……という のもある。
正直に、その方 が多いと言うべきかもしれ ない。

 作者や施主にとっては、幾久しく、拝されることを 祈念しながら造るわけだか ら、何百年か後に博物館の お世話になるということは 出来の良いのを造ったとい うことになるわけで、名誉 なことなのだ。  

 しかし、この選び方に少 々疑問が残る。  
祈りの対象となり数千年 もの歳月を過ごしてきた 「仏」は、既に造形物を超越し、「仏」そのもののよ うな気がする。
「祈りの塊」 に良い出来も悪い出来もな いのだ。
だから、私のようなへたな絵描きの描く仏画も仲間に入れてもらえるのだ。
いや、誤解をしないでいただきたい。
 私は、博物館を否定しているのではないのだ。
博物館で美しい仏教美術に触れ、仏師になった人や仏教に目覚めた人もたくさん居る。
未来の仏教徒や仏教美術家にとって博物館が格好の出会いの場となっているのも事実である。
そういった意味で、博物館が寺院の中にあったらどうだろう。
一般の市民が気軽に美術品を観に行くよう な感覚で寺院に行き、礼拝 もでき、仏法も説いていただける。
 そこで、話を最初に戻す と、つまり、完成された造形物を芸術作品とするか信仰 の対象物とするかで、その扱いが変わってくることになるはずだ。 

 「仏」は、はっきりとした目的を持ってこの世に生 まれてきている。
寺院以外 の場所で、美の競演を演じるることになろう美術品で、埴輪や銅鐸のよ うに信仰の対象ではなくな ってしまったというのだろうか。  
 今も、造仏の目約は生き ているはず。博物館での入院生活が終わったら、それ… ぞれの「仏」たちに、ふさわしい居損所にお帰りを願ったらどうだろう。
それより、「仏」の寿命が短くなってもまた、未来の仏師や仏画師が造仏するに違いない。
その行為そのものが仏教興隆につながるのではないだろうか――。   

ふじのしょうかん