中外日報 1999年(平成11年)6月15日 中外アート 不定期連載エッセーより 1/2紙面

現代人の極楽観とは
極楽ってどんなとこ?
仏画工房 楽詩舎 代表絵師 藤野正観

 今、愛媛県・宇和島の浄念寺に「極楽図」を制作している。 過去に、地獄図その他多数お納めした寺である。
 地獄図の制作例は、世界中に溢れるほど在るのだが、「極楽図」の例はあまりにも少ない。 観経変相図(當麻曼陀羅)に描かれるお淨土ではなく、現代に通用する感覚的な図に仕上げて欲しいというご意向だった。
ふだん、私の制作する「仏画」は、古仏画の再生がほとんどで、あらかじめ写し取っておいた粉本(下絵)を元に私なりに彩色し、補彩・補作をもって平成の仏画に仕立て上げる。 伝承仏画と呼ぶ由縁だ。

アトリエで制作中の筆者


 話がそれたが、「現代人にストレートに分かる極楽図」って、いったいどう表現すればいいのか、考え込んでしまった。
考えても考えても具体的な現代のお淨土の様子は、頭に浮かんでこない。 浮かんでくる光景といえば…。

――そこは、光に満ち溢れ、地面のような雲の上のような…。
傍らには蓮の華が咲き乱れ、心地よい風に乗って乳白色の霞が漂い、なんとも清浄なる香りがする。遥かかなたの阿弥陀の住む大きな御殿は、その霞の為に見え隠れしている。
天には菩薩や如来が飛び交い、飛天の放つ散華と共にどこからともなく淨土の調べが聞こえる。
そこには、電車も車も飛行機もビルもこの世にある人の作ったややこしいものなどひとつもない。あるのは、穏やかな美しい自然と罪のない生き物だけ――。

 私が、仏画に出会っていなかったら異なったイメージが膨らんだだろうが、いくつかの淨土変相図を手がけてきた今の私には、しっかりとお淨土のイメージが固定化されてしまっているのだ。 ありがたいことだ。
お淨土に行って来たかのように具体的にイメージできるのは、私ぐらいであろう――。  
 結局、新しい平成の「極楽観」は、私の貧困な感性からは生まれず、依頼主の中村住職のご提案された十二光仏を光の輪として円に配置し、阿弥陀を中心に配した。
 七月には、今までにない新しい極楽図が完成することになっている。

 新しい極楽図が全貌を現し始めたその頃、私の母が狭心症悪化の為、緊急手術をすることになった。
  カテーテル手術を終え集中治療室に入った母の回復を待つ間のことである。  
隣接した待合室には、我々家族以外に、息子さんと六五才前後の女性が同じように待っていた。
 集中治療室にはその女性の旦那さんが居るらしい。 お互いに手術後の経過は順調で、和んで話ができた。
  明るく話すその女性の口から以外にもこんなお話が聞けたのでご紹介したい。

  「私も、心臓の弁が破れていて何度も手術をしたが膠原病の為、薬が使えず何度も死んでは生き返った。
  現代医学の延命治療によってどうにか生かされている。死にたいのに死なせて貰えない――。
 死後の世界があれほど光輝く美しい世界なら、死なんて少しも怖くない。むしろ早く行きたいのに…。」  
 どうやら極楽は、絵の世界だけではなく、確実に存在するらしい――。

ふじのしょうかん