中外日報 2000年(平成12年)7月20日 中外アート 不定期連載エッセー&コラムより 1/3紙面

仏画を描く
――基本編@線描――
仏画工房 楽詩舎 代表絵師 藤野正観




 「よくもこんなに細い線で描けるものですね――。」仏画を描いた人を前にしてまったく、おべんちゃらでもない感想を聞かされると悪い気はしない。
 しかし、細い線が描けるという事自体は、半年も訓練すれば、誰でも描けるようになるもので、ただその細い線を何処に適確に置くかということが最重要なのである。
できることなら、そのことも評価して頂けるとうれしい。
描かない人から見ると、ただただ線の細いことが、人間業ではないかのように思え、感動されるのかもしれない。
しかし、その素晴らしい線への感動は、実は線の細さだけにあるのではないことに、言った本人は気づいていない。
極端に言えば、線が震えていようと、太かろうと、その線の置き場所が的確であれば、素晴らしい線に見えるということだ。

彩色された本格的な仏画を描こうとする時、最初に練習しなければならないのが線を描く練習だ。
 面相筆を基底物(紙または絵絹)に対して垂直に持ち、筆先の命毛を透けて見える下絵の線に重ね、ゆっくりと滑らす。下絵の持つ良さを少し足りとも失わないように。いや、それどころか下絵よりも良く描こうとすることを目的としなければならない。

 私のところでは、鉛筆で習慣つけてしまった持ち方を、変えることから始める。
あまりにも、長い間、鉛筆やペンにならされた若者は、ここで音を上げることになる。筆を持つ文化が忘れられて、筆で何か書けたり描けることが、特殊技能となるのだから、日本文化も地に落ちたものだ。

話を元に戻すが、この様に筆を自由に使いこなせるようになってからが本当の意味での「技」の世界に入って行くことになる。
細い線、抑揚のない線を鉄線描と言う。
この鉄線描が描けるようになることが、まずは、第一歩である。
最近「写仏」という言葉が、カルチャー教室の案内などでよく聞かれるが、あれは、「写経」と並んで信仰における一つの行として広く世間に広められ、定着したものである。私も、仏画を描こうと一人で勉強していた頃、「写仏」と「仏画を描く為の線の練習」を混同していたことがある。
たしかに、白描画(粉本・下絵)を写すには違いないが、あえて言うが、両者は目的の違うものとして理解しておいた方が良いようだ。
 なぜなら、これから、彩色仏画を描こうと一念発起し、写仏から始めると、ほとんどの人は、彩色段階に入って苦労する。結局最初から、もう一度、線描きの練習をすることになる。いくぶん助かるのは、筆になれていることぐらいかもしれない。いや、もしかしたら、「筆の持ち方は 自由だ」とか「サインペンでも良い」とか、何かの写仏教本に書いてあったことを思い出すと、これも怪しいのかもしれない。
現に、私のところへ写仏歴三年の方が、見て欲しいと言ってこられたが、見ると、とても独り善がりの線で、仕事として仏画を描ける段階のものではなかった。
つまり、写経と同じように、心静かに仏と向かい合うことそのものが、写仏行の目的なのだから、彩色仏画をより完成度の高いものにする為には、それを超えたところに目的を見つけなければならないのだ――。

仏絵師 藤野正観





      

ふじのしょうかん